宗教は掃除好きだよ、という話です。


 

天理教には「修養科」という信仰を学ぶための制度があります。

3か月間の共同生活を通して、座学で勉強したり、お祈りの仕方を練習したりします。

 

 


 

よく「修行?」って聞かれるのですが、ぜんぜん違います。

滝にも打たれませんし、座禅を組んで瞑想することもありません。
(講義中に寝る人は、たくさんいますが...)

 

修行的なことをあえてあげると、朝が早いことと、よく掃除をすることですね。

 

私は修養科に入った人に教えたり世話をしたりする立場として天理に行くことがあります。

修養科に入って勉強する人を「修養科生(しゅうようかせい)」と呼んで、

私のように教える立場の人を「教養掛(きょうようがかり)」と呼びます。

 


 

私が教養掛をしていたとき、二十歳前の男子修養科生からこんなことを言われました。

「自分の班、このあと○○の掃除なんすけど、あそこ、そんなに人いらなくないすかぁ」

 

若い子の言葉を文字にすると、伝わっている感じがしないですね。

「自分の班は、このあと○○の掃除です。あそこくらいの広さなら、班の人全員は必要ないと思います。」

ということですね。

 

なので、こう答えました。

「掃除じゃないからね」

 


 

「えっ、掃除じゃないんすか?」

キョトンとしていました。その男の子。

 

人が目の前でキョトンとする顔って、ほんと久しぶりに見ました。

 

「うん、掃除なら人はいらないけど、掃除じゃないからね」

 


 

宗教活動では、汚れていない場所を掃除することがあります。

汚れていないどころか、むしろキレイな場所を掃除することさえあります。

畳の部屋だったり、廊下だったり、毎日、掃除しているところは、まず汚れていません。

 

それは、「掃除」ではなく、「磨く」という表現が正しいのかもしれません。

 

 

タイトル画像のような木の廊下で考えてみると、わかりやすいと思います。

まったく汚れていない、チリひとつ落ちていないような木の廊下をふく。

掃除しているようにも見えるし、磨いているようにも見えます。

 


 

宗教には、その行いを心に反映させるという考え方があります。

 

掃除ではなく、廊下を磨く、それは「自分の心を磨くこと」と言えるのです。

 


 

ちなみに、今回の見出し画像は天理教教会本部の回廊です。

そして、掃除をしているのは、なんと仏教のお坊さんたちです!

この写真を撮影したお坊さんが知り合いだったので、許可をもらって使わせてもらいました。

(少しだけ明るく加工しました)

 

せっかくなので、同じ写真が使われている記事を紹介しておきます。

 

 

 


 

ようは、とりあえず黙ってやれよって言いたかっただけです。

 

今日のまとめ

 

掃除は奥が深い!