こんにちは。教会長の倉橋です。
教会に来たら「会長さん」と呼んでくれると嬉しいです😀
天理教に限らず宗教の教えって、基本的には道徳的なものが多いんですよね。
例えば天理教の教えでいうなら、こんな感じです。
たぶん、世間的にも受け入れやすい考え方だと思います。
では、道徳と信仰、何が違うのでしょうか?
「天理教の教えっていいですよね」
と言う人がいます。
でも、信仰しますかと聞けば
「入信?いえいえ結構です…」
となるのがほとんどでしょう。
教えはいいと言うのに、信仰はムリ…この違いは何でしょうか?
これは私なりには「未知の価値観に対する拒絶反応」だと思っています。
たぶん、みなさん言語化してないだけで、うっすらわかっているんですよ。
さっき例えで挙げた道徳的な内容。
信仰する人たちにとって、この言葉は「未知の価値観」の下支えがあって成り立っている言葉だということを、みなさん、うっすらわかっているんですよ。
もっというと、その「未知の価値観」はとても宗教臭い、そういうことも感じているはずです。
天理教でいうなら、さっきの道徳的な言葉は、次のような価値観が下支えしています。
さらに、この価値観は、容易に宗教用語へ変換できるので「未知の価値観」が宗教っぽさに変わります。
もはや読み方さえ分からないと思います。
信仰はムリ…、まぁそうなりますよね。
でも、この「未知の価値観」=「信仰的な価値観」が下支えとしてあるから、道徳的な行動がとりやすいとも言えます。
街中のごみ拾いをしよう、お年寄りに席をゆずろう、家族にやさしい言葉を使おう。
そう思っても躊躇してしまう場面も多いと思います。
「道徳的な価値観」だけでは動けない場面でも、「信仰的な価値観」があると動きやすくなるんです。
「神様が見守っている」という安心感や、「借り物の体だから大切に使おう」という気持ちが、ほんのちょっと後押ししてくれる、そんな感じです。
やってみようとしても、なかなかできないという人は、いちど話を聞きに来てみませんか?
人をたすけて、わが身たすかる
(人を救けて、我が身救かる)
読んで字のごとく、誰かを助けることで自分が助かることになる、という教えです。
天理教では誰かのために祈ることも、人をたすけることと教わります。
その祈る行為で自分の不安が軽くなる、つまり救われたと感じたなら、それが「わが身たすかる」です。
天理教の代表的な教えの一つです。