教会長のほぼ週刊ブログ

信仰とは「信じる」ことではない

こんにちは。教会長の倉橋です。

教会に来たら「会長さん」と呼んでくださいね🙏

 


 

ちょっと乱暴なタイトルでしたね。

でもあおっているわけじゃないんです。

ちゃんとまじめです。

 

江戸時代末期のころ、天理教の教祖が初めて会った人に、こう話したことがあります。

 

 

天理王命てんりおうのみことと言う神は、初めての事なれば、まことにする事むつかしかろ

 

 

昔の奈良地方の言い方に天理教用語が混ざっているので、わかりにくいですよね。

 

 

わかりやすく言い換えると、

 

 

天理教の神様は、初めてだから信じることは難しいでしょ

 

 

ちなみに、これを言われた人は、のちの天理教にとって超重要な人物になります。

 

 

そんな人でも、最初は難しいだろって言われるんですから、普通の人にはなおさらですよね。

 

自分自身を振り返ってみても、どこまで信じているか、いまだに怪しいもんですよ。

 

怪しいというより、信じるってどういうことか考えだすと、わからなくなっちゃうんですよね…

 

で、そんな私が普段言っているのは

 

「神がいる前提で考えてみる」

 

です。

 

少しは楽になりますよ。

 

 

ちなみに、その前提を受け入れやすくするステップは

 

① とりあえず、話を聞いてみる

② ちょっと、わかったふりをしてみる

③ 小さな真似ごとをしてみる

 

こんな感じですね。

 

真面目に信仰している人にこれ言うと怒られそうですけどね…

わかったふりって、そんなこと言っていいのか!ってw

 

 

でも、いきなり信じるなんて絶対無理じゃないですか。

 

だから無理に信じることはないんですよ。

 

天理教の救いの一歩目は、奇跡を起こすことではなく、心に映る世界を変えることです。

 →  目に見える世界、心に映る世界

 

 

無理に信じようとせず、形から入る(真似をする)ことで、少しずつ物事の受け取り方(心に映る世界)が変わってくると言えるかもしれませんね。

 

そのうえで信仰とは「信じる」という努力ではなく、「神がいる前提で考えてみる心の習慣のことかもしれません。

 

 

とりあえず、話を聞きに来てみませんか?

 → 天理教の話を聞いてみる

 

 

 

  

 

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