自転車でよそ見すると危ないよ、という話です。


 

3週間ほど前、ろっ骨を2本折る怪我をしました。

自転車に乗っていて、一瞬よそ見をした瞬間に、車道のブロックにぶつかってしまいました。

(タイトル画像は現場の写真です)

 

みぞおちの下あたりに自転車のハンドルが激しくぶつかって、その勢いで折れてしまったようです。

ろっ骨が折れると息が深く吸い込めないんですね。

しばらく、その場に座り込んでいました。

なんとか自転車を押して教会に戻り、家内に病院へ送ってもらいました。

 

みなさんも自転車でも運転中は、よそ見をしないように気を付けてくださいね。

 


 

ところで、天理教には「身上(みじょう)」という言葉があります。

体に問題が起きたときにつかう言葉です。

 

つまり病気や怪我のことです。

 


 

さらに、「~になる」を「いただく」と言い換えることがよくあります。

なので「病気になる」または「怪我をする」は、どちらも「身上を頂く」に変換されます。

 

この言葉は、天理教の人と話をするとき「ここ試験に出るぞ」って言うくらい重要です。

私の場合「骨折の身上を頂いた」と表現します。

(試験に出るので覚えていてください)

 


 

身上を頂くと、いろいろ言われます。

「これも神様からのメッセージ、信仰的に考えて悟らせて頂きましょう」

(いや、わかるけど、今はツラいんだから、マジ勘弁...)

 

信仰者たるもの、思ったことをそのまま口にしてはいけません。

 

まぁそれでも、具合がよくなれば考える余裕も出てきます。

 

でも、良くなったら、良くなったで、忘れちゃいます。

のど元すぎれば、なんとやらです。

 


 

でも、周りの人が具合悪くなると、言いたくなります。

「これも神様からのメッセージ、信仰的に考えて...」と。

 

じつは、そのとき始めて、ああ自分の時はこうだったのかなぁと、気づかされることがあるんです。

 

相手に重くならないよう、さりとて当り障りないレベルでもなく。

そうやって相手の人に話すときになって、ようやく自分の身に起きたことに信仰的に気づくんです。

 


 

こういうことを、天理教では「人をたすけようとするから、自分が信仰的に救われるんだよ」と考えます。

 

しかもカッコイイ言い方があります。

 

「人をたすけて、我が身たすかる」

 

です。

 

 


 

でも、つらい時は、やっぱりそっとしておいてほしいよね。

 

 

今日のまとめ

 

さて、わたしは何を頂いたでしょうか