入信ってどういうことだろう、という話です。


 

天理教には入信する時の手続きがありません。

となると私は、いつから天理教に入信しているのでしょうか?

そもそも、入信していると言えるのでしょうか?

 

私はここの教会の責任者(教会長)という立場です。

 

人から見たら私は入信していることになるでしょう。

もちろん、自分でもそのつもりです。

 


 

ただ、天理教には入信する時の手続きがありません。

書類に何かを書いたり、入信するための儀式みたいなのがないんです。

 

だから、私にはこの日に入信したという明確な日付がありません。

 

手続きがないのなら、入信とは、どういうことでしょう。

 


 

例えば、生まれたばかりの赤ちゃん。

赤ちゃんは、信じるも何もないので、入信しているとは言えないですねよ。

 

ということは、少なくとも自分の意志が入信には必要な気がします。

では、その意志は「よし入信するぞ!」という感じでしょうか。

 

さすがに、違う気がしますね。

 


 

先に白状します。

 

この「入信」とか「信仰」という言葉を、自分なりに定義しようとこれまで何度も試みてきました。

ときどき「これが答えだ」と思えるものにたどり着きます。

ところが、半年、1年も経つと、その答えに納得できず、また新しい答えを探し始めてしまいます。

 

ですから、この先に書く「入信」についても、現時点での考え方であって、

半年もたてば別のことを言っている可能性も十分にあります。

 

そのあたりのことをご了承のうえ、続きをお読みください。

 

 


 

さて、いまの私が考える「入信」ですが、

 

「自分の思考で物事を信仰的にとらえる」ことを受け入れること

 

と、考えています。

 

ちょっと何言ってるか、わからない。。。

 


ようは

「信仰的に考えてみるか」と初めて思った時

ってことです。

 

(「物事を信仰的にとらえる」については次回のブログで説明したいと思います)

 


 

信仰的に考えるためには、信仰の話を聞いておく必要があります。

話を聞いただけでは入信にはなりません。

順番が逆なんですね。

 

ただ私が信仰の話をするのって、飲んだ時くらいなのですが。。。

 


 

ところで、入信した人って、いつも信仰的に考えているように思いますか?

 

これ宗教にかかわりがない人には本当に申し訳ないんですけど、考えてない時間のほうが長いんですよね。

 

信仰的に考えるって、結構、思考する力みたいなのを使うんですよね。

だから結構疲れるんです。

自然と、ここはきちんと考えたほうがいいな、と感じた時だけ信仰的に考えるようになっていきます。

(あくまでも個人的な考えです)

 

ようは、入信の説明って難しいって言いたかっただけです。

 

 

今日のまとめ

 

「入信するから紙を出して」って言わないでください
(実話です)