信仰って信じなくてもできるんだよ、という話です。


 

信仰って信じなくてもできる。

すべての宗教者から怒られそうなこと言っちゃってます。

 

でも、信じるって、むちゃくちゃ難しくないですか?

 

この「信じる」という考え方が、信仰を身近なものにできない理由だと思います。

 


 

「信仰とは信じることである」って、もっともらしく聞こえる言葉ですよね。

 

でも「信仰とは信じることである」とするなら、「信仰」は「信じる」ことができる人、そういう人だけのものになってしまいます。

 

天理教に限らず、宗教をひらいた教祖と呼ばれる方たちは、信仰を「信じることができる人」だけのものにする、そんな小さいことは考えていなかったはずです。

 

きっとどこの宗教の教祖も、この世界すべての人を救うために教えを説いていたはずですよね。

 


 

じゃあ、宗教の話を聞いて信じられない人はどうなるのか?

信じられない人は「宗教」や「信仰」にかかわることができないのか。

 

少しだけ話が、それます。

 

宗教の話って「いい話」と「信じにくい話」の2種類でできています。

「信じにくい」ほうの話は、私だって、本当なの?って思いますよ。

みんな言わないだけなんです。
(あっ...また余計なこと言ってしまう...)

 

話を戻します。

 


 

初めて信仰の話を聞く人には

「偶然を必然と思うことから始まる」

と、私は伝えています。

 

宗教的な話を信じることはできなくても、自分の身に起きた偶然を、なにかの必然として受け止めることはできると思います。

 


 

偶然を

必然とするから、生きることに謙虚になれる。

必然とするから、いつか意味が分かると思える。

必然とするから、必然にした何者かの存在が意識できる。

 


 

でも、いくら必然と思ったところで、納得できないこともあります。

そんなときは、むしろ納得でいないからこそ、必然とする価値があるのだと思います。

 

「偶然を必然と思うこと」が信仰の入り口とするなら、信仰とは、その先にある「必然の意味」を求める道のりです。

長い長い道のりです。

 

その長い道のりを歩めば、途中で心が折れそうになることもあります。

そんなとき、心の杖となって支えてくれるのが「祈り」なんです。

 


 

前回のブログで、今回は「物事を信仰的にとらえる」についてと書くと伝えました。

 

ようは「物事を信仰的にとらえる」って「偶然を必然と思うこと」って言いたかっただけです。

 

 

今日のまとめ

 

このブログを読むのも、何かの偶然かもしれませんね
(^^)v