人生に後悔は付きものだよね、という話です。

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あまり言いたくはなのですが、飲みすぎてとんでもない失敗をした経験が2回ほどあります。

その都度、後悔するのですが、後悔先に立たずとは、本当によく言ったものです。

 

今回は飲み会の時の話ですが、私が失敗した話ではありません。

 


 

20~30人と比較的大勢の飲み会での出来ごとです。

天理教関係ではなく、知り合いがあつまった、そんな飲み会でした。

 

みんなで気持ちよく飲んでいると、年上の知り合いから、こんな話を聞かされました。

 


 

数年前に亡くなった父親のことだけど、

一人暮らしで認知症になったんだ。

 

遠いところに住んでいたから、介護施設に入所させたんだけど、

顔を出すたびに、いつ帰れるんだって聞かれるから、毎回ごまかしていた。

 

何年かして、その施設で亡くなったんだけど、

引き取って面倒を見てあげたほうが良かったのかなって思うと

今でも後悔する。

 


 

こういう話がでると、飲んでいても、頭の中は宗教者モードに替わるんですね。

「いいこと言わなきゃ」みたいな。

ようは職業病みたいなものです。

 

でも残念ながら、伝わりやす天理教的な教えとかは出てこないんですよね。

 

そのかわり、こんな言葉を伝えました。

 

「引き取っていても、後悔してたんじゃないですか」

 

で、もう一言。

 

「どっちにしても、その後悔が、その人の深みになるんですよ」

 

みたいなことを言いました。

 

その言葉を聞いて「えっ...」というか「あっ...」というか、そんな顔をされたことを覚えています。

 


 

その顔を見た私は、ちょっとドヤ顔しながら、ずっと我慢していたトイレに駆け込みました。

 

吐いてたわけじゃないですよ。

この年齢になると、トイレが近くなるんです。

ビールだいぶ飲んでましたし。

 

トイレから戻ってきたときは、その人はもう他の人と話をしていたので、その話はそれまでとなりました。

 


 

信仰して何かいいことがあるのか?

ということを言う人がいます。

 

そういう方に伝えたいことは

 

過去に起きた「現実」や、その時の「感情」は変えることはできません。

でも、そこに新しい「ラベル」を貼ることはできます。

 

今回でいえば

 

・引き取らなかったという「現実」

・後悔という「感情」

 

この「現実」と「感情」を足し合わせたところに、【人としての深み】という「ラベル」を貼るのです。

 

信仰とは、宗教の教えの中にどんなラベルがあるか、そしてそれをどう貼っていくのか、

それを学んでいくことなのかもしれません。

 

と、ドヤ顔で、みなさんにお伝えておきます。。。

 

 

今日のひとこと

 

飲みすぎた時の失敗は、深みにはなりません。

ネタにされます。

 

 

天理教東王子分教会(足立区)