背負わなきゃいけない試練もあるよね、という話です。

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前回のブログで、乗り越えられない試練について投稿しました。

今回はその続きです。

(前回のブログ「20円分の円形脱毛症だよ、という話です。」)

 


 

前回のブログの最後で、「乗り越えられない試練はある」と話しました。

 

乗り越えられない試練は、背負っていく必要があります。

試練を背負って生きていかなければならないとき、人はどうしようもなく不安になってしまうのものです。

 

背負う試練に比例するように、試練が大きく重いものであれば、将来の不安も大きく重くなっていきます。

 

だから、上馬キリスト教会さんは「どうか背負いすぎないで下さい」とツイートしたのでしょう。

→ 前回のブログ

 


 

天理教の教えでは「試練」という言葉は使いません。

「ふし(漢字をあてると)」という言い方をします。

 

植物の竹をイメージすると何となく目に浮かぶあの「ふし」です。

「ふしから芽が出る」なんて使い方をします。

 

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今回は試練や「ふし」の天理教的な解釈ではなくて、試練と信仰そのものについて話してみたいと思います。

 


 

同じような試練がおきても、上手に受けるというか無理のない受け方をする方がいます。

一方で、重く受け止めたまま、ずっと立ち直れないという方もいます。

 

何が違うのでしょうか。

「試練」を重い荷物に例えてみましょう。

 

建築現場に行けば、細身の方でも軽々と重い荷物を運んでいるところを見かけます。

最低限の筋力は必要でしょうが、背負い方にコツがあるそうです。

特に荷物の重心が大事だそうです。

 

宗教の教えは、ちょうど背負い方のコツを教えてくれるようなものです。

試練の背負い方や受け止め方のコツです。

試練自体が小さく軽くならなくても、背負いやすく感じるコツが教えの中にはあります。

 

また重い荷物といってもにも、いろいろな荷物があります。

例えば30Kgの鉄筋とか、30Kgの米袋、ほかにも寝てしまった30Kgの子どもとか。

どれも、30Kgですが、背負い方や運び方のコツはどれも違います。

 

同じように、試練も、その試練ごとに背負いやすくなるコツは違ってくるんです。

 


 

さて、重いもの持ったり運ぶコツは、人から教わっただけでなく、何度も繰り返して体に覚えさせる必要があります。

 

試練の背負い方、受け止め方も同じです。
 

よくお坊さんの説教を聞いて心が軽くなったという話を聞きます。

きっとコツを聞いてできるようになった気になるんでしょうね。

 

重いものの背負い方のコツを聞いて、背負えるようになった気になるのと同じです。

 

試練が軽くなるような受け止め方を何度も自分の中で繰り返して、初めて背負いやすくなります。

繰り返し実践することを人は「信仰」と言うのかもしれません。

 

「信仰によって救われた」

この言葉は、試練を背負ったまま生きていけるようになった。

ということなのでしょうね。

 

いま背負っている試練があるという方は、ぜひ近くのお寺や教会に行って話をしてみてください。

 

きっとヒントが見つかると思います。

 

 

 

今日のひとこと

 

試練は全部背負わなければ軽くなる

 

 

 


天理教東王子分教会(足立区)