お葬式はいらない
こんな本を読みました。
『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』小学館 (2010/6/1)
高齢になった親世代が「葬式はいらない」と言ったことで、残された家族に何がおきるのか、そんな内容の本です。
中盤以降は、宗教者に向けた色合いが濃くなっていますが、一般の方でも十分読めると思います。
さて本の中に、こんな文章がありました。
介護がだんだん辛くなって「逝ってくれたら楽なのに」などと思った人は、それが現実になると自分を責めてしまう。
「あの時あんなことを願ったから死んだのだ」と考えてしまうのだ。
うちは3年前に父を自宅で看取りました。
もちろん訪問看護やヘルパーさんの力を借りながらの家族全員での介護です。
それでも、最後の2週間ほどの介護はなかなか大変でした。
ちなみに、天理教では死ぬことを「出直し」と呼びます。
最後の介護の期間は、私のような立場であっても
「介護するこっちの体がもたない、そろそろ出直してほしい」
と考えたこともありました。
でも「そろそろ出直してほしい」と考えたからといって、この本に書かれているような「あの時あんなことを願ったから死んだのだ」とは考えません。
それは、天理教の神様って、自分勝手な願いは聞きいれてくれない前提だからです。
教えのベースが「人の助かりを願いなさい」なので、自分中心の勝手な願いって、神様聞いてくれないんですよね。
それから、もう一つ、そう考えない理由があります。
「息を引き取るのも、神様の大事な働き」と教えられています。
だから、神様がその人にとってふさわしいと考えたタイミングで息を引き取るんだろうと思うんです。
それらしいエピソードを紹介します。
父は、生前、変なところでせっかちなところがありました。
普段はそうでもないのですが、何かの拍子でイライラッとして、せっかちが出てくるんですよね。
周りはたまりませんよ。。。
さて最後の数週間、意識はあったのですが、いつ急変してもおかしくないと訪問診療の医師から言われていました。
親族や知り合いにも、そう伝えていたのですが、特に急変することもなく日にちが過ぎていきます。
そのころ、私が何かの用事で電話すると
「あっ、まだです。すみません。今回は別の要件です」
が、最初の挨拶になっていました。
この時期は介護も大変だったので、「もうそろそろ」ってよく考えていましたね。
そんな状況でも日にちが経てば「あと数日ですね」と医師から言われます。
それを言われ急ぎ家から離れている家族にも伝えます。
その結果、その週の金曜日の夜、私の弟も含め家族全員が揃うことができる、そんな予定がたちました。
「すげーな、全員集まるよ」
そんな話を水曜日、木曜日としていました。
いよいよ今夜、全員が揃うという金曜日の朝、パッと逝ってしまいました。
え~~それまで介護するのも大変な時期が続いて、それこそ「そろそろ」なんて考えた日もあったのに、最後の最後で待たないんかい!
その日の午後、急ぎ集まった家族みんなでそんな話をして、せっかちな父らしいと言って笑ってました。
神様の粋な計らいだったのかもしれません。
天理教の言葉
出産の時、親と子の
胎縁 を切り、出直しの時、息を引きとる世話。世界では切ること一切の守護の理。
人間は神様によって生かされ守られていると教えられています。
その「生かされ守られている」を10に分類して教えられています。
これを「
上記はそのうちの一つ「切る」の部分です。
- 出産のときに、母体と子どもを切り離すこと
- 出直しのとき、息を引き取ること
この2つが神様の「切る」働き・守護と教わります。
ところで、「世界では切ること一切の守護の理」と続きがありますね。
これには人間関係の悪縁や悪運を切ることが含まれています。
なんだか縁切りの神様みたいですね。
でも不思議と天理教として前面に出して伝えることは少ないんです。