教会長のほぼ週刊ブログ

神はいるのか

数年前の話ですが、うちに悩み事の相談に来た人がいました。

もちろん、簡単に解決できるような悩み事ではありません。

 

また、その人は天理教の信仰をしていないので、それほど深く信仰的な話もできません。

多少、表面的な話をした程度です。

 

そもそも悩み事とは、簡単に解決もできないし、他人のアドバイスも役に立たないことが多いものです。

 

結局は時間が経過することで、いつの間にか解決していたり、解決とまでいかなくても気にならなくなったりするものだと思います。

 

そういう状態になるまで、人に話を聞いてもらって気持ちを軽くしたりして時間を稼ぐわけです。

 

さて、その相談に来た方ですが、一通り自分の話をしてもらいました。

多少は気持ちが軽くなったようで、最後にこんなことを言われました。

 

 

聞いてもらって、ありがとうございました。

でも、神様を信じることはできないので、信仰はできないと思います。

 

 

まぁ、そうですよね。

当時も、さらっと流した記憶があります。

悩み事の相談に来たからと言って、入信しろというつもりもありません。

 

天理教に相談にきたのだから神様を信じろってほうが、無理な話です。

正直に言えば、私だって、どこまで信じているか怪しいものです。

科学が発達したこの時代に、神の存在を信じることは、とても難しくなったと思います。

 

それでも、前回のブログ「信仰するメリット」に書いたように、身の回りに起きたことを信仰によって『必然』と受け取るためには、やはり神の存在が必要です。

 

神の存在があるからこそ、偶然のような出来事を『必然』と受け取れるし、そうすることで心に余裕が生まれてくるのです。

 

でも、神様を信じられなかったら、どうするのか。

 

私が伝えている言い方は

 

「神がいる前提で考える」

 

です。

 

神さまが本当にいるのか、それともいないか、そんな証明はできません。

だから、「とりあえず、いる前提で考えてみよう」というんです。

 

そう考えると、ときどきしっくりくることがあるんですよね。

 

 

天理教の言葉

 

在るといえばある。無いといえばない。

 

 

天理教の教祖が生きている時代にこんな質問をした人がいます。

「神様の姿は、あるのですか?」

 

素朴な疑問とは言え、教祖に向かってなかなかのツワモノですよね。

 

その時の、教祖の答えが

「在るといえばある。無いといえばない。」

です。

 

この質問をした方はすでに確固たる信仰をしていて、神の存在を信じていました。

だから「姿はありますか?」という質問だったんです。

 

 

神を信じられないなぁという人は

 

「いると言えばいる。いないと言えばいない。」

 

で、いいんじゃないかと思います。

これが、私が伝えたい信仰のスタンスです。

 

 

 

  

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