教会長のほぼ週刊ブログ

他責思考と自責思考と

こんにちは。教会長の倉橋です。

教会に来たら「会長さん」と呼んでもらえると反応しやすいです。

 

さて今回は「なんで宗教なんかやってるの?」そんな疑問にお答えしますね。

 


 

まぁそもそも教会に生まれ育ったので、どうしようもないところもありますけど。

 

それでも、信仰的な考え方は自分を楽にしてくれるところって結構あると思っています。

 

たとえば、最近のブログにときどき登場する不登校の末っ子君。

 

もし私が他責思考なら不登校になった原因を「先生のせいで」とか「学校の対応が」とか、そういうふうに囚われてしまうと思います。

 

他責に囚われると、どうしてもイライラすることが多くなりますよね。

 

じゃあ自責思考ならいいかと言えば、そうでもないんです。

 

「自分の育て方が悪かった」とか「あのとき自分がこう言えばよかった」とか

鬱々として、やっぱりしんどいんですよ。

 

そこに信仰的な思考の場合、

「神様が良かれと思ってそうしてくれてる」

みたいな感じになります。

 

他の宗教はわかりませんが、天理教的な考え方の特徴ですね。

 

『神責思考』とでも呼べばいいでしょうか。

(自分で書いておいて、読み方わからないでけど。。。😅💦)

 

まぁ、「他責・自責・神責」のどれか一つがすべてということにはならないです。

 

不登校については「10%・20%・70%」くらいの割合で受け止めています。

 

物事によって、割合は毎回違いますが「神様の責任」を混ぜることで、

他人を必要以上に恨むことも、自分を必要以上に責めることも、いくらか減らすことができます。

 

今回も、自分の子が不登校になったおかげで、不登校の子を持つ親の集まり「親カフェ」を始められそうです。

 

まぁ、信仰があるんでこういう考え方もできるし、それを伝える機会があれば伝えてみたい、そんなことを考えながら今日も宗教やってます。

 

 

天理教の言葉

 

 

てびき

 

 

天理教教典の第六章の題名です。

 

先ほどの「神様の責任」は、天理教用語を使ってまじめに言うと「陽気ぐらしに向かうための神様からの手引き」となります。

 

天理教教典「第六章 てびき」の前半部分を、ChatGPTに要約してもらいました。

 


 

人間は皆、苦しみを嫌い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む存在です。

それは親神が、陽気な生活を営んでほしいという思いから、人間世界を造られたからです。

 

しかし、多くの人々は病苦や災厄、家庭の不和、逆境に苦しんでいます。

それは親神を知らず、親神の深い親心を理解していないからです。

 

親神は私たちの親であり、私たちは互いに兄弟姉妹として親神を仰ぐ存在です。

しかし、人々はこの真実を知らずに、自分勝手に生きて他の人々の心を傷つけ、世の中の調和を乱し、自らの心も傷つけていることに気付かずにいます。

そのため親神は、真実の親を教え、陽気な生活の思召を伝えるために、さまざまな試練を与えてくださいます。

 

病気や災難、事情のもつれなどは、反省を促されるための親神の深い愛情からであり、陽気な生き方への手引きなのです。

 


 

原文で読んでみたい方はこちら

 

 

 

  

 

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