こんにちは。教会長の倉橋です。
教会に来たら「会長さん」と呼んでくれると嬉しいです。
信仰を杖に例えて説明します。
天理教に限らず、いろんな宗教の信仰にもつうじる例えだと思います。
信仰を持っていると、人生のいくつかの場面で役に立ちます。
ためしに3つ選んでみます。
① 転んだあと
② 背筋を伸ばしたいとき
③ 人を叩くとき
それぞれを杖に例えながら説明していきますね。
杖があると転んだあと立ち上がりやすそうですね。
同じように人生につまずいた後、信仰があると立ち上がりやすくなります。
立ち上がったあとも楽なんですよね。
40代の頃、実際に杖を使ったことがあります。
年配の方が杖を置き忘れてしまったので、それを届けにいったときのことです。
もちろんその時の自分に杖は必要ありません。
でも何気に杖を突きながら歩いていったんです。
で、使ってみると歩くのが楽なことに気が付きました。
信仰も同じで、あると普段から少し楽になるんです。
イギリスの紳士がもつ杖。
ステッキと言い換えたほうが通じそうですね。
突いて歩くためというより、身だしなみ用のアイテムですね。
信仰しているからこそ、ちゃんとしなきゃで、感情にまかせて怒鳴ったり、人目をはばかるような行いをしないということです。
でもエラソーに書いていますが、私、数年に一度、飲みすぎて人様に見せられない姿になることがあります。
たまには失敗も許してもらいつつ、なるべく背筋を伸ばした人生を歩みたいものです。
これは決してほめられる行いではありません。
でも信仰は人を叩くことができるんです。
杖と同じです。
信仰しているんだから、こうしなきゃいけない、ああしなければならない。
そう言ったあとに、それをできない人に「信仰が足りない」と言って叩くんです。
杖は人を叩くものではありません。
自分を支えたり、身だしなみとして持つものです。
信仰も同じです。
自分を支えたり、身だしなみとして持つものです。
でも、叩くことができてしまうからこそ、そういう使い方をしてはいけないと知っておいてほしいのです。
たすけあい
天理教が最も重視する考え方です。
信仰によって自分を支えるだけでなく、誰かを支えられる人になることを望まれています。