教会長のほぼ週刊ブログ

きれいなところを掃除する意味

こんにちは。教会長の倉橋です。

教会に来たら「会長さん」と呼んでくれると嬉しいです。

 


 

天理教には 修養科 しゅうようか  という制度があります。

修養科は奈良県天理市にある天理教の施設で3か月間の共同生活をしながら教えや信仰を学びます。

座学で教えを勉強したり、お祈りの仕方を覚えたりします。

 

天理教以外の人に「修養科」の説明をすると「修行?」って聞かれることが多いんです。

ん~、たぶん皆さんが想像している修行とはだいぶ違うと思います。

滝にも打たれませんし、座禅を組んで瞑想することもありません。

瞑想の代わりに講義中に寝る人は、たくさんいますけど...

 

あえて修行っぽいことをあげれば「朝が早いこと」と「よく掃除をすること」でしょうか。

 

修養科に入って勉強する人を修養科生 しゅうようかせい と呼びます。

私は、だいたい2年に1度くらいの頻度で約1か月間、修養科生のお世話をする立場になります。

私のような立場を教養掛 きょうようがかり と呼びます。

 


 

さて、数年前、私が教養掛をしていたときのことです。

修養科生に二十歳前の男の子がいましまた。

 

あるとき彼からこんなことを言われたんです。

「自分の班、このあと○○の掃除なんすけど~、あそこ、そんなに人いらなくないすかぁ?」

若い子の言葉だと、伝わる感じがしないですね😅

 

ようは

「自分の班は、このあと○○の掃除です。あそこの広さなら、班の人全員は必要ないと思います。倉橋さんは、どう思いますか?」

ということですね。

 

なので、こう答えました。

「掃除じゃないからね」

 

「えっ、掃除じゃないんすか?」

キョトンとしていました、その男の子。

 

目の前でキョトンとする顔って、めったに見ませんよね。

なんか嬉しかったです。

 

「うん、掃除なら人はいらないけど、掃除じゃないからね」

 

宗教では、まったく汚れていない所も掃除します。

汚れていないどころか、むしろキレイなくらいの場所でも掃除します。

 

それは、「掃除」ではなく、「磨く」という表現が合っているかもしれません。

タイトル画像のような木の廊下で考えると、わかりやすいと思います。

 

回廊.jpg

 

まったく汚れていない、チリひとつ落ちていないような木の廊下をふく。

掃除しているようにも見えるし、磨いているようにも見えます。

 

天理教に限らず宗教には、行いを心に反映させるという考え方があります。

掃除ではなく廊下を磨く、それは「自分の心を磨くこと」と言えるのです。

 

「自分の心を磨く」天理教的に言えば「心の埃を払う」という言い方になります。

 


 

天理教では自分中心の勝手な心遣いを「埃」に例えて話をします。

 

いくら掃除をしても、すぐに積もるのが埃です。

しかも気が付かないうちに積もっています。

 

どんな人でも自分中心の勝手な心遣いは、気が付かないうちに使ってしまう、そんな「埃」のようなものだと教えられています。

だから、埃が積もる前に廊下を掃除するように、心の埃も積もる前に払いましょうということです。

 

ちなみに、このタイトル画像は天理教教会本部の廊下です。

 

回廊.jpg

 

そして、この写真で廊下を拭いているのは仏教のお坊さんたちです!

天理教教会本部には他宗教の人でも入れるんです。

で、この写真を撮影したお坊さんが知り合いだったので、許可をもらって使わせてもらいました。

 

 

その写真が使われているお坊さんが書いた記事を紹介しておきます。

ぜひ読んでみてください。

(いつの間にか有料になっていました)

 

天理教の言葉

 

 

八つのほこり

 

 

こういう心遣いがほこりだよという代表的なもの8つです。

 

1.出し惜しみ骨惜しみ

2.人の物を欲しがる

3.罪を憎まず人を憎む

4.えこひいきのかわいい

5.人をうらみ根に持つ

6.自分勝手に腹を立てる

7.ごまかしてでも強欲に走る

8.人を見下し欠点を探す

 

 

  

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