教会長のほぼ週刊ブログ

信じられないので信仰できません

こんにちは。教会長の倉橋です。

教会に来たら「会長さん」と呼んでもらえると反応しやすいです。

 


 

数年前の話です。

うちの教会に未信仰の方が相談に来ました。

 

その方は個人的な悩みをいろいろ抱えていて、これまでの身の上の話をされました。

人間関係がおもな悩みでしたが、私は聞き役に徹していました。

 

で、その方は話の最後に、

「いろいろ話を聞いてもらったのですが、わたしは神様の存在を信じられないので、信仰はできないと思います」

と言われたんです。

 

まあ、それも仕方のないことと思います。

わたしも

「それでも構わない、なにかあったらまた話に来てください。」

そのような答えをしました。

 

その後は、数か月たったころでしょうか、また教会に来て話をされていきました。

 

そんなことが何回かあったのですが、しばらくして少し遠いところに引っ越しされます。

 

その後は電話で話を聞くようになります。

 

人間関係の悩みは良くなったり悪くなったりといった感じです。

 

そこで、信仰の話をしたんです。

 

すると

「信仰しなくても話を聞いてくれるって言ったじゃないですか」

と言われ、その後しばらく疎遠になってしまいました。

 


 

天理教の場合「救い」という言葉は使いません。

似たような意味で「たすかり」という言葉を使います。

 

それは、病気が治ったり、人間関係が改善することも含まれますが

どちらかと言えば、自分の心が変わることに重きをおいています。

 

天理教では、自分の心が変わることが大事なのです。

 

それは決して「入信しなさい」とか「神様を信じなさい」という話ではありません。

 

信仰の話を聞いて、自分自身を行動や心遣いを振り返ってほしいのです。

それによって何かに気がついて、自分の心が変わってほしいのです。

 

それは今生きている喜びや、周りへの感謝に気づくことなんです。

神様がどうとか、入信がどうとかの話ではないのです。

 


 

もしこの先、新しく相談に来た人が

「わたしは神様の存在を信じられないので、信仰はできないと思います」

と言われたら、次のように答えるつもりです。

 

 

今はかまいません。

でも、ひと月たっても、半年たっても、1年たっても状況が変わらなければ、信仰の話をします。

その時は素直に耳を傾けてくださいね。

 

 

 

天理教の言葉

 

 

こゝろすみきれ ごくらくや

(心澄みきれ、極楽や)

 

 

原典の一つである「みかぐらうた」の一節です。

 

信仰の話によって、いろいろと気づいたなら、ものごとの見え方が変わってきます。

つまり、見えるまま、聞こえるままの世界に変りはなくても、心が澄みきれば、心に映る世界が変ってくるのです。

そうすることで、今まで苦しみの世の中と思われていたのが、しだいに楽しみの世界(極楽)と悟れるようになりますよ、という教えです。

 

 

  

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