教会長のほぼ週刊ブログ

不幸じゃないけど幸せを感じない

スマホ1台あれば、ネット上のいろんな記事が読めます。

便利な世の中になったものです。

 

先日、いつものようにスマホをいじっていると気になる記事を見つけました。

 

記事の内容を、ざっくりまとめると

 

 

起業して成功した。

まだ40代。

 

お金もある、時間もある、家族もいる。

当然、不幸とは思わない。

けど、幸福感を感じることができない。

 

 

こういう話、時々聞きますね。

さらに話が続いていて、アドバイスを受けたことも書いてありました。

 

 

趣味、ボランティア、寄付、旅行

全部やったけど、やっぱりなんか違う。

 

 

 

 

私もネットで検索してみました。

似たような事例がたくさんありますね。

 

よい機会なので、私なりに、信仰を前提に考えてみました。

 


 


東日本大震災のあと「当たり前の日常が幸せだった」という話をよく聞きました。

 

先に挙げた人も、今あるものを失うと、あの時は「幸せだったんだ」と気が付くのかもしれませんんね。

 

では、東日本大震災で日常を失った人が、全員が不幸かと言えば、それもまた違うと思います。

つまり「失う=不幸」でもないと言うことです。

 


 

ちょっと話がそれます。

 

病気の親や、小さいきょうだいの世話を日常的にしている未成年の子どものことを「ヤングケアラー」と呼びます。

 

社会ではこのヤングケアラーを支援の対象にしています。

 

でも、そういう状況にある子どもたちは、自分がヤングケアラーだということに、ほとんどの子が気が付いていません。

 

なぜなら、家族のケア(世話)をすることが日常だからです。

 

周りの大人から言われて、初めてヤングケアラーだと気が付くんです。

 

いっぽうで、支援の対象だから「不幸だ」とか「かわいそうだ」とか周りが決めつけてしまうのも、また間違っていると思います。

 


 

つまり、「お金がある/ない」「家族がいる/いない」といった状況だけで「幸せ/不幸」という判断はできないんだと思います。

 

いっぽうでヤングケアラーの子は、自分が「ヤングケアラー」だと気付いていませんでした。

 

つまり「幸せ」も「不幸」も気が付かなければ、どんな状況であってもその人にとっては「幸せ/不幸」ではないのです。

 

せっかくなら「幸せ」のほうより多くに気がついて、「幸せ」を感じられる人生を過ごしたいものですね。

 

 

天理教の言葉

 

水を飲めば水の味がする

 

天理教の教祖の言葉です。

 

天理教を始めて何年かたったころのことです。

信者さんは、まだほとんどいません。

 

教祖の家族(娘)が、家に食べるものが無くなったことを教祖に伝えた後に言われた言葉です。

 

「水を飲めば水の味がする」

これだけ聞くと、かなり乱暴な言いようですね。

 

この言葉には、前後があります。

 

(意訳です)

 

世の中にはどんなに裕福でも食べることも水を飲むこともできない人がいる。

それに比べて、自分たちは、水を飲めば水の味がする

神様が健康にしてくれている証拠だよ。

 

 

 

水を飲めば水の味がする

 

天理教では、これが幸せに気づくポイントです。

 

 

 

 

  

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