真剣に考えてみた
なぜ、信仰するのか
なぜ、布教するのか
その理由を真剣に考えてみました。
私はこの教会の教会長であると同時に宗教4世です。
曾祖父の代から信仰を受け継いでいます。
曾祖父が入信したのは明治の中頃のことです。
入信のきっかけは目の病気を天理教の信仰に助けてもらったことでした。
昔の人は病気を治してもらうために入信する人が多くいました。
でも今は発達した医療のおかげで、いろんな病気が治療できます。
たぶん明治や大正の時代には考えられないくらい、なんでも治せる時代になったんだと思います。
そんな時代に生きる自分は何のために信仰するのだろう?
何のために布教しているのだろう?
現在、私は教会長の他に、会社役員と個人事業主という立場もあります。
いわば三足のわらじの状態です。
使っている時間は
会社役員 < 個人事業主 << 教会長
の順です。
いっぽう収入は
教会長 <<< 会社役員 < 個人事業主
の順です。
正直に言えば、教会長の仕事は持ち出しです。
収入だけを考えるなら、教会長の時間を減らして、個人事業主や会社役員の仕事を増やせばいいのです。
でも、それだとなんだか人生に物足らない気がして...
話がそれました。戻します。
ほとんどの病気が治せるようになった時代に、自分は何のために信仰しているのだろう?
信仰する理由を、ほかの宗教のホームページを見たり、AIに質問したりしてみました。
よく出てきたキーワードは 『心のよりどころ』 です。
この言葉、聞いたことがある人も多いと思います。
でも個人的には
「『心のよりどころ』って、そもそもどんな意味?」
って、疑問を感じるんです。
なんなら、宗教側が生き残りをかけて生み出した言葉みたいな...
すみません。言いすぎましたね。
『幸福』 というキーワードもよく出てきました。
いかにも宗教っぽいキーワードですが、この 『幸福』 というキーワードが
- なぜ、信仰するのか
- なぜ、布教するのか
の答えを出すきっかけになりました。
そもそも『幸福:幸せになること』を信仰の目的にすることは違うと私は考えています。
だって信仰がなくても幸せな人はいますよね。
それに「幸せになること」が目的だと、「信仰をやめたら不幸になる」という思考になりがちで、これはこれで別の問題につながっていきます。
この問題は長くなるので深追いしませんが、それでも信仰がベースにあった自分の人生を振り返ると、おおむね幸せだったなぁと感じるわけです。
もちろん順風満帆な人生だったわけでもないし、それなりにハードな体験もしています。
いまでも全てがうまいくいっているわけではありません。
それでも幸せだと感じられるのは、たぶん信仰が身近にあったことで、心を落ちつけやすかったからでしょう。
心が落ちつけば、身近にある幸せを気づきやすくなりますよね。
心が落ちつかない状態だと、幸せに気づくどころか、むしろ「私の人生最悪...」って感じてしまうと思います。
信仰は『幸せになること』とは違うと書きましたが、『幸せに気づきやすくなること』は、ありかもしれません。
そうすると『心のよりどころ』は『心が落ちつく環境』と言い換えても良さそうです。
宗教には祈りの空間や時間があります
その空間や時間は『心が落ちつく環境』になるでしょう。
宗教には教えがあります
その教えの中に『幸せに気づきやすくなること』が含まれています。
普段から心が落ちついている人、幸せそうな人。
そういう人がそばにいてくれれば、自分も穏やかに過ごすことができるでしょう。
いっぽうで、心が落ちついてない人、不幸ばかり嘆く人。
そういう人が身近にいると、心穏やかに過ごすことは難しいと思います。
どうでしょうか?
天理教の教典の一節に、こんなことが書かれています。
見えるまま、聞こえるままの世界に変わりはなくとも、心に映る世界が変わり、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られてくる。
信仰することで、何かが変わることがなくても、心に映る世界が変わり、この世の中が楽しい世界に感じられてくる、そんな意味の言葉です。
あなたが、普段から心が落ちついている人、幸せそうな人になったら、きっと周りの人も穏やかに過ごせるでしょう。
そうやってたくさんの人が心穏やかに過ごせる世界を、天理教では 『陽気暮らし』 と呼んでいます。
『陽気暮らし』は天理教の教えが目指す世界観です。
そろそろまとめましょう。
- なぜ、信仰するのか
- なぜ、布教するのか
まず私が信仰している理由。
やっぱり『心が落ちつく』からだと思います。
もちろん『幸せに気づきやすくなること』もあります。
でも、改めて自分自身を振り返ってみると、心が落ちつくから信仰していると言えます。
それから布教する理由。
三足のわらじのおかげで、たぶん普通より多い人と接していると思います。
その中で感じるのは、不幸とか困りごと以上に、心休まる環境の少なさです。
神仏が... 教えが... そんなことよりも、まずは心を落ちつかせることができる、心を休ませられる環境が信仰によって身近になればいい。
そう思いながら布教しています。
いかがだったでしょうか?
心を休ませに、いちど話を聞きに来てみませんか。
お待ちしています。