奇跡はあるの?

奇跡という言葉があります。
天理教ではあまり奇跡と言う言葉は使いません。
まったく使わないわけではありませんが、どちらかというと「
ところで、奇跡って信じますか?
信仰していると、奇跡を信じなきゃいけない、みたいな空気を感じることもあるのですが...
もちろん「奇跡だ」というか「神様が働いたかな」と感じることはあります。
でも「それってあなたの感想ですよね」って言われればそれまでってことも。
まあそうは言っても、信仰している者としては『奇跡』という言葉はやはり魅力的なんですよね。
先日『天理時報』という天理教の機関紙に、こんなエッセーが掲載されていました。
エッセーの一部を引用します。
奇跡と思える奇跡
2007年、がんのため24歳で生涯を閉じた女性の最後の1カ月間を収めたドキュメンタリー番組「余命1ヶ月の花嫁」が放映されました。
テレビをつけると、入院中のその女性が車いすに座り、外へ出る場面でした。
女性は青く澄みきった空を眺め、しばらくして同伴したスタッフに言いました。
「ねえ、知ってた?空って、青いんだよ」
(略)
アインシュタインはこう言っています。
「人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、奇跡など何も起こらないと思って生きること。もうひとつは、あらゆるものが奇跡だと思って生きること」。
(略)
信仰は、その先に奇跡を見るのではなく、日常が奇跡だと気づくようになる歩みである。
そのことを知性によってではなく、心の眼で感じ取っていく道。
ご守護や奇跡は始めから与えられているのです。
ともすれば、それは現実の悩み苦しみから逃げていると思われるかもしれません。
しかし、そこから見える信仰の景色は自ずと自身と周囲の心を明るく照らします。
それは現実を動かす信仰者の確かなリアリティーです。
あらゆることが奇跡と感じられる、それこそが奇跡ではないか
かしものかりものの理に生きるとは、そういうことだろうと、僕は背伸びをするのです。
(引用ここまで:太字はこちらで編集)
2011年3月におきた東日本大震災。
その後の報道では、なんでもない日常が幸せだったということを多くの被災者が語っておられました。
日常がそれこそ奇跡と感じられていたら、どれだけ幸せだったでしょうか。
でもそれは、エッセーで書かれているとおり、ほんとうに奇跡的なことなのかもしれません。
ちなみに、タイトル画像はエッセーに差し込まれていたイラストです。
素敵なイラストだったので、許可をとって使わせていただきました。
天理教の言葉
日々 まあ一日 の日、結構 という理 を忘れて了 う。どうも残念でならん。
神様からの言葉です。
天理教では、私たち人間は、神様のご守護で生かされていると教えられます。
しかし、この「生かされている」ことをどうも忘れている。
神様からみて残念でならない、と言うことです。
私も「生かされている」そのことをコロッと忘れて一日過ごすことがあります。
いやむしろそういう日のほうが多いかもしれませんね。
せめて朝夕のお祈り「おつとめ」の時間だけでも、生かされていることを『奇跡』と思って、神さまに感謝できる