こんにちは。教会長の倉橋です。
教会に来たら「会長さん」と呼んでもらえると反応しやすいです。
熊代亨さんという精神科医の先生がいます。
この方、古くからのブロガーでもあり、私も数年前から読ませてもらっています。
最近のブログに、こんなことが書かれていました。
このゴチャっとした、ロジックでは説明できない、「そうすることが自然と思えるこれら」が私の信仰の本態なのだと思う。
『このゴチャっとした、ロジックでは説明できない、「そうすることが自然と思えるこれら」が私の信仰の本態なのだと思う。』
言いたいことは、よくわかります。
信仰を伝えるときは、どうしても論理的、ロジック的に説明しようとしてしまいます。
たぶん、今の時代を生きる私たちにとっては、そのほうが説明しやすいからだと思います。
小学校からの教育がそうさせているんでしょう。
宗教や信仰を伝えようとしても、どうしても現代の科学や医学と、つじつまが合うように、論理が破綻しないように説明してしまう。
でも、そんな説明だと、どうにも伝わった感じがしない、なんとなく大事な核になる部分が抜け落ちている気がするんです。
きっと、科学や医学とつじつまが合わない、論理が破綻している部分に宗教や信仰の本質が多く含まれているからなんでしょう。
でもこれを相手に伝えるのって、やっぱり超絶難しいんですよね。
だって、聞かされる相手も
「現代科学につじつまが合う、論理が破綻しない」を常識として教えられてきたわけですから。
伝える側としては常にモヤモヤするわけです。
そんな中で「そうすることが自然と思える」という言葉を目にしたのです。
「そうすることが自然と思える」が宗教の本質とするなら、「理解」という言葉はなじみません。
その感覚は、他人から与えられるというより、自らの人生の中で見出していくものなのかもしれません。
となると、その過程を支援し、導くことが私たちの役割なのかもしれませんね。
説明するというより、感じてもらう、どう感じるかを伝えていくことかもしれません。
いずれにしても、難しそうですね。
日々
「ひび」ではなく「にちにち」と読みます。
毎日というより、常日頃という意味に近いです。
「
意味は「常日頃の信仰の仕方」みたいな感じです。