こんにちは。教会長の倉橋です。
教会では「会長さん」と呼んでくださいね🙏
私はこの教会の教会長であると同時に、曾祖父の代から信仰を受け継ぐ宗教四世です。
曾祖父は明治中頃、目の病気を天理教の信仰で助けられてことを機に入信しました。
昔は病気を治してもらうために入信する人が多くいました。
でも今は医療が発達し、いろんな病気が治療できる時代です。
たぶん明治や大正の人たちには想像できないほど、なんでも治せる時代になっていると思います。
そう考えると「この時代に生きる自分は、何のために信仰しているのだろう🤔」という疑問が浮かびます。
信仰の意味を調べると「心のよりどころ」や「幸せになること」という言葉がよく挙げられています。
でも個人的には
「心のよりどころって、そもそもどんな意味?」
って、疑問を感じるんです。
むしろ宗教が生き残りをかけて生み出した言葉みたいな...
おっと… 言いすぎましたね😅
あと「幸せになること」も、それを信仰の目的にすることに、ちょっと違和感を感じます。
だって信仰がなくても幸せな人はいますよね。
それに「幸せになること」が目的だと、「信仰をやめたら不幸になる」というという発想になりかねません。
とは言え、信仰がベースにあった自分の人生を振り返ると、おおむね幸せだと感じます。
もちろん順風満帆な人生だったわけでもなく、それなりにハードな体験もしました。
いまでも全てがうまくいっているわけではありません。
それでも幸せだと感じられるのは、信仰が身近にあったことで、心を落ちつけやすかったからかな、と思います。
心が落ちいていれば、身近にある小さな幸せにも気づきやすくなりますよね。
信仰は幸せになることが目的ではないと書きましたが、『幸せに気づきやすくなること』は、案外あり得るかもしれません。
そう考えると「心のよりどころ」とは「心が落ちつける環境」と言い換えても良さそうです。
宗教には祈りのための空間や時間があります
その空間や時間が『心が落ちつける環境』になるのでしょう。
いままでいろんな人と接してきました。
その中で感じるのは、不幸とか困りごと以上に、心休まる環境の少なさです。
まずは心を落ちつかせることができる、そういう場所を見つけられるといいですね。
この教会もそういう空間の一つになれるようにしていきたいと思っています。
見えるまま、聞こえるままの世界に変わりはなくとも、心に映る世界が変わり、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られてくる。
天理教の教典に書かれている一節です。
信仰することで、目に見える世界に変わりがなくても、心に映る世界が変わり、この世の中が楽しい世界に感じられてくる、そんな意味の言葉です。