こんにちは。教会長の倉橋です。
教会に来たら「会長さん」と呼んでもらえると反応しやすいです。
天理教の信仰を伝える立場として年に数回この疑問が頭に浮かぶんです。
「自分は、どこまで信じているんだろう?」
教えを信じるって言っても、偉い人の話を鵜呑みにすることとは違うと思います。
たぶん「信じる」を
「いま身に起きていることを、教えに沿って解釈すること」
と考えたほうが分かりやすい気がします。
まぁ、この考え方が正しいかどうかわかりません。
あくまでも私なりの考えです。
でも、単に「信じる」という言葉を使うより、わかりやすいと思います。
「いま身に起きていることを、教えに沿って解釈すること」
ところで、教えに沿って解釈していても、その解釈が正しくない、そう感じることがあるんです。
ちょっと違いますね。
今、自分の身に起きていることを、どう解釈したらいいか分からない。
こんな感じですね。
天理教には原典と呼ばれる教えのもととなる書物があります。
どう解釈したらいいか分からない。
そんなときそんなときは、原典に目を通すのですが、やっぱりそれでも分からないことが多い。
そうこうしているうちに、時間が経って忘れてしまう。
そんな繰り返しです。
でも、そうやって、繰り返しながら教えを学んでいくことが、「信じる」程度を進めていくのかもしれません。
「自分は、どこまで信じているんだろう?」
この質問は
「自分は、身に起きたことを、どこまで教えに沿って解釈できるようになっただろう?」
という疑問に置き換えると、すこし分かりやすくなりそうです。
神の
自由 して見せても、その時だけは覚えて居 る。なれど、一日
経 つ、十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了 う。
「自由」と書いて「じゅうよう」と読みます。
読み方は「重要」と同じですが、意味は「自由自在」に近いです。
この文章は「おさしづ」という神の啓示が書かれている本の中にある一節です。
そのまま読んでも何となく意味は通じると思いますが、
もう少し読みやすくするとこんな感じになります。
神の自由自在の力で、何かを見せてやると、その時はそれに感激している。
だけど、1日、10日、30日もたてば、ころっと忘れてしまう...
意外と、信仰していてもそんなもんです。
神様にはバレてます。