こんにちは。教会長の倉橋です。
教会に来たら「会長さん」と呼んでくれると嬉しいです😀
最近、続けて信仰の在り方について考えさせられる機会がありました。
まだ深堀りはできていませんが、忘れないうちに一度言語化しておきたいと思います。
深堀りできていないので抽象的な内容になりそうですが、ご容赦を。
自分の悩みの解決や、病気の回復のために入信するのは何かちょっと違う気がします。
きっかけは悩みや病気でもいいと思うんです。
でも入信するかどうかは、もう少し違うところにある気がします。
信仰は自分の生き方を、どう生きるか「明らかにする」ことだと思います。
この「明らかにする」は、昔の言い方では「明(あき)らむ」だそうです。
さらにこの「明(あき)らむ」は「諦める」の語源でもあるそうです。
この語原からするなら、
信仰とは、自分の生き方を明らかにすること、と同時に
自分の生き方の何かを諦めることでもある、と言えます。
「宗教の教えは道徳的なことが多くどこも同じ」という意見があります。
わからなくもありません。
ただ、「諦めること」については、宗教ごとにかなり違う印象を持ちます。
他の宗教のことはあれこれ言えませんので、天理教では何を諦めるのかについて触れてみたいと思います。
天理教の信仰で諦めること。
それは「自分のこと」だと言えます。
誤解を恐れずに言うなら、自分の悩みや病気を諦めることです。
自分の人生を諦めることではありません。
自分の人生は明らかにしていくことです。
詳しく説明します。
天理教の信仰実践の中でも重要なものとして「人だすけ」があります。
直接助けられない相手でも、祈りを通してたすかりを願うように教わります。
例えば、手術を必要としている人のような場合です。
自分が手術するわけにいきませんからね。
その「人だすけ」を通して自分自身が救われていくと考えるのが天理教の教えです。
救われるといっても、悩みが解決したり、病気が治ったりすることではありません。
そういうこともあるかもしれませんが、むしろそうならなくとも
「なるほど、そういうことか」と思える日が見えてきます。
入信とはそういう生き方を受け入れる覚悟の表明と言ってもいいかもしれません。
入信しなくても話を聞くことはできますよ。
見えるまま、聞こえるままの世界に変わりはなくとも、心に映る世界が変わり、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られてくる。
天理教教典に書かれている一節です。
悩みが解決したり、病気が治ったりすることがなくても、心に映る世界が変わる。
けっしてあり得ないことではありません。