こんにちは。教会長の倉橋です。
教会では「会長さん」と呼んでくださいね🙏
「付き合い信仰」、「付き合い信心」とも言います。
どちらかと言えば、いい意味では使われません。
自分の信念や信仰心からではなく、人間関係や社会的な付き合いを気にして信仰する、そんな感じのことを意味する言葉です。
高市総理もそんな感じかもしれません。
実際、天理教を信仰している人の中にも「付き合い信仰」の人はいます。
イメージしやすいのは、天理教ではありませんが、次のような感じです。
「お盆の時期にお坊さんが家に来たときだけ、仏壇に手を合わせ、お布施を渡す」
天理教だと「春か秋の大祭のときだけ、お供えを郵送する」みたいな感じですね。
熱心に信仰している人からすると、まぁ何というか…いろいろと思うところはあるようです。
ここからは完全に私個人の考えです。
私個人としては「付き合い信仰」でも構わないと思っています。
いまの社会、昔と違って、たいていのことは何とかなります。
昔は病気になったら家で寝かされているだけでした。
いまは病院も薬もあります。
昔は嫁姑問題から逃げても居場所はありません。
いまは嫁姑問題もほとんど聞かなくなりました。
昔は困窮すれば物乞いでした。
いまは生活に困れば、生活保護という制度があります。
だから、生きることに関しては、たいていのことは何とかなる社会なんです。
でも、それでも、理不尽なことは起こります。
どうにもこうにもならないことは、生きていれば1度や2度は起きてきます。
そういうときに「心のよりどころ」と言われる宗教が必要なってくるんです。
宗教の教えが救ってくれるんです。
でも、どうにもならなくなってから宗教を探しても、ちょっと難しいんですよね。
「なんとかしてほしい」が優先されすぎてて、肝心な「教え」が入っていかないんです。
いまの時代の宗教の役割って、どうにもならなくなった時に奇跡を起こすというより
教えを通して、現実をどう受け入れるかを考える
↓
現実を受け入れたことで、心に余裕ができる
↓
その心の余裕で助かっていく
という感じです。
だからこそ、何もないとき、心に余裕があるときに付き合い信仰でもいいので「教え」に触れておいてほしいんです。
どうにもならなくなる前に「教え」を知っておいてほしいのです。
付き合い信仰でも構いません。
教えを聞きに来てみませんか。
成ってくるのが天の理
天理教の教えを説く公式の書籍(原典、教義書)にはない言葉ですが、比較的よく使われる言葉です。
身の回りに起きてくること、それがどのように進んでいくか、すべて神様からの思いがあるという意味です。