こんにちは。教会長の倉橋です。
教会に来たら「会長さん」と呼んでくれると嬉しいです😀
人生、生きていれば、ムカつくことも、イライラすることもあります。
天理教の教会長をやってたって、もちろんありますよ。
(人間だものbyみつを、って感じで...)
ところで、ムカついたり、イライラしたことを、長く引きずる人と、比較的短時間で収まる人がいるように思います。
これはどういうことなのでしょう?
ちょっと天理教的に解釈してみたいと思います。
前提として、天理教では心を水に例え、そのうえで「心を澄ます」という考え方があります。
なので、モヤモヤしたり自分中心の心遣いのときは、心が「泥水」の状態と言えます。
教えでは、その心の泥を早く出すようにと教えられています。
ここからは公式ではなく、天理教の友人から教わった悟り方を、私なりにアレンジしたものです。
コップの中に泥水が入っているところを想像してみてください。
これ、時間が経つと、自然と泥が下に沈んで上の部分が澄んできますよね。
心を落ち着かせるだけなら、泥を出す必要ないんです。
時間が経てば、誰でも上の分が澄んでくる。
つまり、表面的とはいえ、心が落ち着いてくる、穏やかな状態になってくるんです。
もちろん、心の下のほうには、わだかまり、つまり泥が残っているかもしれません。
それでも最初はイライラしたけど、時間が経てば落ち着いてきた、そういうことって皆さんも経験あると思います。
ところが、この澄むまでの間に、自分でかき回しちゃう人がいるんですね。
せっかく澄んできそうだったのに、また泥水に戻してつらい思いをしてしまう。
まぁエラそうに言いつつも、自分でもやってしまうことあるんですけど...
気晴らしで、何か集中できること。
身体を動かすでも、料理をするでも、ナンプレ解くでも。
そういう時間を持つ意味は、心が澄んでくるまで、自分で心をかき回さないようにするためなのかもしれませんね。
底にたまった泥は出さなくていいの?については、いずれまた。
(続きを書きました:2025/01/12)
こゝろすみきれ ごくらくや
(心澄みきれ、極楽や)
原典の一つである「みかぐらうた」の一節です。
心の中の泥を出し切って、心が澄みきれば、この世の中は極楽だと言われています。
見えるまま、聞こえるままの世界に変りはなくても、心が澄みきれば、心に映る世界が変ってくると教えられています。
コップの中に泥がなければ、どんなにかき回しても、かき回されても、澄んだ水のままですからね。