教会長のほぼ週刊ブログ

泥を出す方法

こんにちは。教会長の倉橋です。

教会では「会長さん」と呼んでくださいね🙏

 


心を澄ます:底にたまった泥は出さなくていいの? の続きです。

 

コップの中に泥がなければ、どんなにかき回しても、かき回されても、澄んだ水のままです。

そんな心の状態は、天理教を信仰する・しないに限らず理想の状態ですよね。

 

わたしも、そんな状態になれたら、どんなに人生が楽なことか...

いちおう天理教の教えの中には、そのやり方っぽいことが説かれています。

 

 

いまゝでハ とんな心でいたるとも
いちやのまにも 心いれかゑ

(今までは どんな心で いたるとも
 一夜の間にも こころ入れ替え)

 

 

もうひとつ

 

 

このすいの どこにあるやと をもうなよ
むねとくちとが すなとすいのや

(この水嚢すいのう どこにあるやと 思うなよ
 胸と口とが 砂と水嚢すいのうや)

 

 

「砂と水嚢すいのう」とは、水をろ過するための「ろ過器」のことです。

 

で、2つの内容からコップの中の泥をどうするか?

もうめちゃくちゃ簡単(乱暴?)に言うと

 

新しいコップに、ろ過器を通して入れ替えてしまえ

 

です。

 

たしかに泥は濾過され、新しいコップには澄んだ水が入ります。

理屈はわかるけど、これを自分の心でやるのは、はっきり言ってムリ!

そう簡単に人の心なんて入れ替われませんよね。

 

じゃぁ、私はどうやっているかというと...

 

泥を固める

 

です。

 

 

教えの中には、物事(理不尽なことも含めて)をどう受け取ったらよいか、そういう指針みたいなものがたくさんあります。

 

その受け取り方を利用して、物事を上手にあきらめる

もしくは、上手に心に納めるという表現でもいいかもしれません。

 

簡単な例だと

自分には必要なことだった、とか...

前世での行いのさんげだ、とか...

 

イメージ的には、モヤモヤしていた泥を教えで固めてしまう。

モヤモヤした状態だと心全体に広がってしまうけど、固めてしまうと意外と小さくなる感じがします。

ポイントは、『教え』で固めること。

自分の意志や知識だと、うまくいかなかったとき自分が疲れちゃう。

 

ちなみに、信仰を伝えるような立場にある私でも、心の中にはモヤモヤはもちろんあって

とりあえずそれを固めて小さくしてるだけです。

だから、心をかき回されると、やっぱりモヤモヤします。

 

でも下で固まっている分だけ、早く上の部分は澄んでくれてるかな。

そんな感じですね。

 

 

ところで、底のほうで固まった泥はその後どうなるか?

それについては、いずれまた。

 

(続きを書きました:2025/05/18)

底のほうで固まった泥はその後どうなるか?

 

 

天理教の言葉

 

 

 

このすいの どこにあるやと をもうなよ
むねとくちとが すなとすいのや

(この水嚢すいのう どこにあるやと 思うなよ
 胸と口とが 砂と水嚢すいのうや)

 

 

「胸と口」とは「さとり」と「さとし」を意味します。

 

悟りとは、物事がおきた意味を、自分で教えを通して解釈することです。

諭しとは、物事がおきた意味を、相手が悟れるように教えを説くことです。

 

自分自身の悟りと、人への諭し、この2つがそろって、やっと心の泥を洗い出せるんですね。

やっぱり簡単じゃないです。

だからこそ信仰を通し一生をかけて学びと自省を続けていける、とも言えます。

 

 

  

 

一覧に戻る


LINE登録するとブログ更新時に通知が届きます

友だち追加